午前三時の月面コンビニ

月面都市シロツメクサ第七区には、二十四時間営業のコンビニが一軒だけあった。

正式名称は「ルナ・マート第七支店」。だが住民たちは単に「月コン」と呼んでいた。

地球から見れば、月面都市という響きは未来的で華やかに聞こえるかもしれない。しかし実際には、酸素管理、放射線対策、予算不足、古びた循環設備との戦いである。夢よりも配管の方が重要だった。

店員の相良ユウトは、深夜勤務専門の二十七歳だった。

午前三時。 客はほとんど来ない。 来るのは研究者、眠れない技師、酔っ払った鉱夫、あるいは地球との時差で働く通信オペレーターくらいだ。

その夜もユウトは、ホットコーヒー補充ロボットのエラー表示をぼんやり眺めていた。

「またミルクだけ温めてる……」

彼がため息をついた瞬間、自動ドアが開いた。

鈴の代わりに、気圧調整の「プシュッ」という音が鳴る。

入ってきたのは、小柄な老人だった。

灰色の宇宙作業服。 酸素タンクは旧式。 ヘルメットには細かな傷が無数についている。

老人は店内を一周すると、棚からイチゴミルクを一本だけ取り、レジへ来た。

「百九十クレジットです」

老人は黙って紙幣を差し出した。

紙幣。

月面ではまず見ない。 すべて電子決済だからだ。

ユウトは紙幣を受け取って固まった。

それは三十年以上前に廃止された旧地球連邦紙幣だった。

「これ……使えませんよ」

老人は少し考えるような顔をした。

「そうか。まだ廃止されたままだったか」

"まだ"?

奇妙な言い方だった。

老人は胸ポケットを探り、小さな金属片を取り出した。

「じゃあ、これで払えるかな」

ユウトはさらに固まった。

それは、地球中央時間管理局の認証コインだった。

都市伝説レベルの代物である。

時間管理局。

二十一世紀末、時間移動実験の事故で消滅したとされる機関だ。

「……偽物ですか?」

「だいたい皆そう言う」

老人は笑った。

ユウトは警備ドローンを呼ぶべきか迷ったが、なぜかその老人から危険な気配は感じなかった。

むしろ疲れていた。 とても長い旅のあとみたいに。

「イチゴミルクくらい、いいですよ。サービスします」

老人は驚いた顔をした。

「ただ?」

「はい」

「それは未来でも残っていたか」

老人は嬉しそうにうなずいた。

そしてイチゴミルクを抱えたまま、窓際の席へ座った。

十分後。

今度は別の客が来た。

黒いスーツの女だった。

月面都市でスーツは珍しい。 しかも真っ黒。 宇宙塵がつきやすく実用性がない。

女は店に入るなり周囲を見回し、まっすぐ老人の席へ向かった。

「ようやく見つけました」

老人は嫌そうな顔をした。

「コンビニで追跡されるとは思わなかった」

「時間犯罪局です。同行願います」

ユウトはレジの裏で固まった。

時間犯罪局?

そんな組織、映画の中にしか存在しない。

老人はイチゴミルクを一口飲み、ため息をついた。

「若い頃は、もっと格好いい場所で捕まると思っていた」

「立ってください」

すると老人は、ちらりとユウトを見た。

「店員さん。逃げるなら今だ」

「え?」

次の瞬間。

世界が止まった。

正確には、女だけが止まった。

髪も、呼吸も、瞬きも静止している。

老人は立ち上がった。

「三十秒だけ時間を切り離した。便利だろう?」

「な、何を……」

「説明している暇はない。君、名前は?」

「相良ユウトです」

「ユウト。君は三分後に死ぬ」

ユウトは笑った。

あまりに唐突すぎて、笑うしかなかった。

「いやいや、怖い冗談ですね」

「冗談ではない。ここに隕石が落ちる」

老人は窓の外を指差した。

遠くの宇宙空間に、小さな赤い光が見えた。

最初は星に見えた。 だが、それは急速に大きくなっていた。

「えっ……」

「私がここへ来た理由は二つ。イチゴミルクを飲むこと。そして君を連れ出すことだ」

「なんで僕を?」

老人は少し黙った。

「君が未来で、人類を滅ぼしかけるからだ」

沈黙。

ユウトは口を開けたまま固まった。

「……は?」

「だが同時に、人類を救う」

「意味が分かりません」

「私も完全には分かっていない。だから困っている」

老人は真顔だった。

その瞬間、黒スーツの女が動き出した。

「時間停止の不正使用を確認」

女の右手が光った。

空間に青い亀裂が走る。

「うわっ!?」

老人はユウトの腕をつかんだ。

「走れ!」

二人はコンビニの裏口へ飛び出した。

月面都市の夜道は静かだった。 空には巨大な地球が浮かんでいる。

だが後方では、黒スーツの女が異様な速度で追ってきていた。

「なんなんですか、あの人!」

「未来警察みたいなものだ!」

「みたいって!」

角を曲がった瞬間、老人は古びた自動販売機の前で止まった。

「これだ」

「自販機ですけど!?」

「偽装している」

老人が側面を叩くと、自販機が左右に開いた。

中には、球体の機械が収まっていた。

「タイムマシンだ」

「もっと未来っぽくしてくださいよ!」

「予算不足だったんだ!」

二人は球体へ飛び込んだ。

直後、世界が白くねじれた。

次にユウトが目を開けた時、そこは海辺だった。

青空。 潮風。 波の音。

宇宙服もドームもない。

「ここ……地球?」

「二百三十年後の地球だ」

ユウトは遠くを見た。

海の上に巨大な都市が浮かんでいる。 空には何十ものリング状構造物。

だが奇妙だった。

人が少ない。

静かすぎる。

「人口が減ったんだ」

老人は言った。

「君の発明でね」

「僕、科学者じゃありませんけど」

「今はな」

老人は海辺を歩き出した。

「未来の人類は、ついに"完全な仮想世界"を作った。脳を接続すれば、現実より快適な世界で永遠に暮らせる」

「ゲームみたいな?」

「違う。現実そのものだ。痛みも孤独も老化もない」

ユウトは少し考えた。

「それ、悪いことですか?」

老人は立ち止まった。

「誰も現実へ戻らなくなった」

風が吹いた。

「農業も、宇宙開発も、科学研究も、全部AI任せになった。人類は幸福になった。だが同時に、未来を失った」

「……」

「そして、その仮想世界の設計者が君だ」

ユウトは笑えなかった。

老人は続けた。

「だが問題は別にある。君は最後に、自分でシステムを壊そうとした」

「え?」

「人類が眠ったまま滅ぶと気づいたからだ」

海の向こうで、巨大なリングがゆっくり回転していた。

「君は正しかった。だが遅すぎた。仮想世界に依存した人類は、現実へ戻れなくなっていた」

「じゃあ僕は……悪人なんですか?」

老人は少し笑った。

「そこが面倒なんだ。君は善人だった」

その時。

空間が裂けた。

黒スーツの女が現れる。

「時間跳躍を確認。違法行為です」

老人はため息をついた。

「しつこいな」

女はユウトを見た。

「相良ユウト。あなたを保護します」

「保護?」

「あなたは未来に必要です」

「滅ぼしかけるのに?」

「人類は、あなたの世界を選びました」

女の声には感情がなかった。

「苦痛のない世界。争いのない世界。死を恐れなくていい世界。あなたは人類最大の救世主です」

老人は吐き捨てるように言った。

「檻の中の幸福だ」

「幸福は幸福です」

二人はにらみ合った。

ユウトは混乱していた。

どちらが正しいのか分からない。

すると老人が小さく言った。

「ユウト。君はコンビニで働いていただろう」

「はい」

「なぜ無料でイチゴミルクをくれた?」

「困ってる人っぽかったからです」

「それだ」

老人は笑った。

「人類を救うのは、いつも大発明じゃない。そういう小さな無駄だ」

ユウトは、なぜか胸が熱くなった。

老人は続けた。

「効率だけなら、仮想世界が正しい。だが、人間は少し不便なくらいでちょうどいい」

女は静かに言った。

「非合理的です」

「そうだ。だが、それが人間だ」

その瞬間、空が赤く光った。

警報音。

遠くのリング構造物が崩れ始めている。

女が初めて動揺した。

「まさか……未来崩壊?」

老人は静かにうなずいた。

「歴史が変わったんだ」

「何をしたんです!?」

老人は笑った。

「イチゴミルクを飲んだ」

「は?」

「本来、私はあの隕石で死ぬ予定だった。だがユウトが商品をくれたせいで、数秒行動がずれた」

ユウトは目を見開いた。

「え……」

「その結果、私は生き延びた。そして未来へ来て、君を連れ出した」

老人は笑った。

「歴史なんて、案外コンビニレベルで変わる」

世界が揺れ始めた。

女の輪郭がノイズのように崩れる。

「時間線維持不能……」

老人はユウトを見た。

「さて。君はどうする?」

「どうするって?」

「未来を作るのは君だ」

ユウトは長く考えた。

そして言った。

「……とりあえず、コンビニに戻りたいです」

老人は吹き出した。

「いい答えだ」

白い光が広がる。

次にユウトが目を開けた時、彼はルナ・マート第七支店のレジ前に立っていた。

時計は午前三時七分。

何事もなかったようにコーヒーロボットがミルクだけを温めている。

「夢……?」

その時、自動ドアが開いた。

小学生くらいの少女が入ってくる。

「すみません」

「はい?」

「イチゴミルク、ありますか?」

ユウトは少し笑った。

「ありますよ」

少女は嬉しそうに棚へ向かった。

その後ろ姿を見ながら、ユウトはふと思った。

未来は、きっと大きな発明だけでできているわけじゃない。

誰かに飲み物を渡すこと。 眠れない夜に店を開けておくこと。 たった数秒の親切。

そういう小さな行動が、星の歴史を変えるのかもしれない。

レジの横には、見覚えのない古いコインが一枚だけ残っていた。

時間管理局認証コイン。

ユウトはそれをそっとポケットへ入れた。